○どんぐりと山猫
2006年01月29日
どんぐりと山猫 ホームレスの人を仲間に迎える
大阪地裁はホームレスの人に公園での住民登録を認めた という記事を見つけた。
法律論はわからないが、賢治の目で見れば、すてきな判決だ。こういう判決は、社会に余裕がないとでてこない。
大阪を見直した(?)
(この記事は、井上直行弁護士さんのブログにトラックバックしています)
■自然のリズム気の流れ 宮沢賢治「 どんぐりと山猫」
『 「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」
がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。
山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」
別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。 』
■暮らしに恋愛
宮沢賢治は人を比べ序列をつける世間に苦しみ抵抗し続けた生涯だった。
自分が金持ちの生まれであり、実家の援助を受けて生涯暮らしたことは、賢治の大きなコンプレックスだった。
確かにほかのホームレスの人も今後片っ端からあちこちの公園に住民登録しだしたら、それは大混乱は起きるだろう。
しかし、ホームレスの人たちをはじきださないで、仲間として受け入れ迎え入れることは、やさしい街づくりのひとつとして欠かせないことだと思う。
石も樹も風も水も大地も光も動物たちもなにもかもが仲間なのだから、人が仲間でないわけがない。
これまでの20世紀型の「弱肉強食・持たざるものは死ねばよい」路線の舵を、21世紀型の「たおやかでみずみずしい心と身体の世界」にきるために、
わたしたちはこれからはたくさん苦労を引き受けていき、すこしでも柔らかな社会を子どもたちに残していきたい。
法律論はわからないが、賢治の目で見れば、すてきな判決だ。こういう判決は、社会に余裕がないとでてこない。
大阪を見直した(?)
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■自然のリズム気の流れ 宮沢賢治「 どんぐりと山猫」
『 「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」
がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。
山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」
別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。 』
■暮らしに恋愛
宮沢賢治は人を比べ序列をつける世間に苦しみ抵抗し続けた生涯だった。
自分が金持ちの生まれであり、実家の援助を受けて生涯暮らしたことは、賢治の大きなコンプレックスだった。
確かにほかのホームレスの人も今後片っ端からあちこちの公園に住民登録しだしたら、それは大混乱は起きるだろう。
しかし、ホームレスの人たちをはじきださないで、仲間として受け入れ迎え入れることは、やさしい街づくりのひとつとして欠かせないことだと思う。
石も樹も風も水も大地も光も動物たちもなにもかもが仲間なのだから、人が仲間でないわけがない。
これまでの20世紀型の「弱肉強食・持たざるものは死ねばよい」路線の舵を、21世紀型の「たおやかでみずみずしい心と身体の世界」にきるために、
わたしたちはこれからはたくさん苦労を引き受けていき、すこしでも柔らかな社会を子どもたちに残していきたい。
2006年01月12日
どんぐりと山猫 ちぢみほうれん草のうまさ
ちぢみほうれん草のうまさ
今夜は近くのスーパーで、ちぢみほうれん草(3束で189円だったかな)というのを買って、我が家で食べた。
店員さんに教えてもらった通り、ただ湯通しして水で洗って何もつけずに食べただけなのだが、その濃い甘さの舌をひたしたときの驚きは、信じられないほどのものだった。これなら毎日食べたいが、いつまで出回るかわからないという貴重品だそうだ。
包んだラップには「霜に何度もあたり甘みが強く味が濃いのが特徴です。冬場の旬の時期のみの限定品です」とあり、販売元はJA佐波伊勢崎、JA全農ぐんまとなっている。
JA佐波伊勢崎さん、JA全農ぐんまさん、ありがとうございます。そしてちぢみほうれん草くん、ありがとう。
自然のリズム気の流れ 宮沢賢治 どんぐりと山猫
『 やまねこは、ぴんとひげをひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
山ねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出して、どんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。 』
えらさに違いはやはりあるだろう
「どんぐりと山猫」で一郎は、それぞれのどんぐりの主張する、いちばんえらいというものさしをすべてひっくり返してしまう。比べ競うことの無意味さを伝えるのであるが、これは、裁判ということを考えると、まともな判決になっていないのではないだろうか。
どんぐりたちがしいんとして、堅まってしまったのは、自らのエゴへの反省というよりは、こんな裁判に絶望し、これ以上なにも言う気が失せたからではなかろうか。
そもそも「いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」などという結論は、どのどんぐりにもとうてい納得できるような話ではないだろう。
子どもの説教でも、通用しない。
ましてや「ぼくお説教できいたんです。」などという根拠でそんなことを言われた日には、たまったものではないし、一郎自身ほんきでそう思っているのかどうなのか。
ということでわたしはこの話に頭があまり下がらない。
今日のちぢみほうれん草でわかったことは、ほっぺたの落ちそうなくらいうまいほうれん草と、どうでもいいようなペチャッというような味のほうれん草が世の中には確かにあるという事実だ。
ちぢみほうれん草は、寒い季節をむりくり外に追いやられ、何度も何度も霜に打たれ冷たく身の引き締まる朝を重ねさせられ、そのたびに生死の世界をさまよって、生命保存の本能に導かれて、仮死状態でも命をつなげるようにと、うまみ栄養分を必死で生産してためていった結果、おのれの身体に甘みがしっかりと満ち満ちることになったのであろうし、ふだんお目にかかる味の希薄なほうれん草連中は、何という苦労もなく日を重ね、なにもかんがえないパッパラパー人生を経て市場にでてきた連中であろう。
これはちぢみほうれん草のほうが、ほうれん草の生き方としてえらい、というか、尊敬に値する。
苦労がここまで野菜の味を変えるものという驚嘆が、今日のブログになった。
宮沢賢治の世界
宮沢賢治の世界は、読み込むほどにとてつもなく深く重層的につくられていることがみえてくる。
今日の「どんぐりと山猫」も、わたしの書き方しだいでいくらでもちがう主張に使い回しがきく。これはこれで実はかなり深い話に展開できるからいずれまた登場するだろう。
宮沢賢治は、字面やあらすじを追うだけでもおもしろいし、その世界の色や音色という感覚に遊ぶだけでもすばらしく楽しいし、今日のように、好きかってに思索の遊行にもでかけやすい。
長い年月、全世代に愛されて飽きられることのない宮沢賢治の天才性の秘密がここにもある。
身体に恋愛
心も身体も、大事にしすぎても無理をさせすぎてもいけない。ちょうどいいくらいの適度なストレス・負荷をかけてあげることで、眠っている力がよびさまれる。それを今日のちぢみほうれん草は教えてくれる。
笑いの効用が言われて久しいが、悲しみ苦しみの効用が言われることはあまりない。「苦労は買ってでもしろ」は死語になってしまったとしたら日本はお終いだ。
いつも楽な道を探すわたしに、人様にどうのこうの言う資格はないので今日はわが身に言いたい。
「少しはちぢみほうれん草を見習え」
そうは言ってもあれやこれや、思う事 ひなたぼっこと猫ぱんち 山あり、谷ありとかを見ると
強気一点張りで生きれないときも山ほどあるからなあ。
こうやって山と谷を行きつ戻りつ、が人生かな。
今夜は近くのスーパーで、ちぢみほうれん草(3束で189円だったかな)というのを買って、我が家で食べた。
店員さんに教えてもらった通り、ただ湯通しして水で洗って何もつけずに食べただけなのだが、その濃い甘さの舌をひたしたときの驚きは、信じられないほどのものだった。これなら毎日食べたいが、いつまで出回るかわからないという貴重品だそうだ。
包んだラップには「霜に何度もあたり甘みが強く味が濃いのが特徴です。冬場の旬の時期のみの限定品です」とあり、販売元はJA佐波伊勢崎、JA全農ぐんまとなっている。
JA佐波伊勢崎さん、JA全農ぐんまさん、ありがとうございます。そしてちぢみほうれん草くん、ありがとう。
自然のリズム気の流れ 宮沢賢治 どんぐりと山猫
『 やまねこは、ぴんとひげをひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ。」
すると、もうどんぐりどもが、くちぐちに云いました。
「いえいえ、だめです。なんといったって、頭のとがっているのがいちばんえらいのです。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。」
「そうでないよ。大きなことだよ。」がやがやがやがや、もうなにがなんだかわからなくなりました。山猫が叫びました。
「だまれ、やかましい。ここをなんと心得る。しずまれしずまれ。」別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らしました。山猫がひげをぴんとひねって言いました。
「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減になかなおりをしたらどうだ。」
「いえ、いえ、だめです。あたまのとがったものが……。」がやがやがやがや。
山ねこが叫びました。
「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ。」別当が、むちをひゅうぱちっと鳴らし、どんぐりはみんなしずまりました。山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」一郎はわらってこたえました。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出して、どんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。 』
えらさに違いはやはりあるだろう
「どんぐりと山猫」で一郎は、それぞれのどんぐりの主張する、いちばんえらいというものさしをすべてひっくり返してしまう。比べ競うことの無意味さを伝えるのであるが、これは、裁判ということを考えると、まともな判決になっていないのではないだろうか。
どんぐりたちがしいんとして、堅まってしまったのは、自らのエゴへの反省というよりは、こんな裁判に絶望し、これ以上なにも言う気が失せたからではなかろうか。
そもそも「いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」などという結論は、どのどんぐりにもとうてい納得できるような話ではないだろう。
子どもの説教でも、通用しない。
ましてや「ぼくお説教できいたんです。」などという根拠でそんなことを言われた日には、たまったものではないし、一郎自身ほんきでそう思っているのかどうなのか。
ということでわたしはこの話に頭があまり下がらない。
今日のちぢみほうれん草でわかったことは、ほっぺたの落ちそうなくらいうまいほうれん草と、どうでもいいようなペチャッというような味のほうれん草が世の中には確かにあるという事実だ。
ちぢみほうれん草は、寒い季節をむりくり外に追いやられ、何度も何度も霜に打たれ冷たく身の引き締まる朝を重ねさせられ、そのたびに生死の世界をさまよって、生命保存の本能に導かれて、仮死状態でも命をつなげるようにと、うまみ栄養分を必死で生産してためていった結果、おのれの身体に甘みがしっかりと満ち満ちることになったのであろうし、ふだんお目にかかる味の希薄なほうれん草連中は、何という苦労もなく日を重ね、なにもかんがえないパッパラパー人生を経て市場にでてきた連中であろう。
これはちぢみほうれん草のほうが、ほうれん草の生き方としてえらい、というか、尊敬に値する。
苦労がここまで野菜の味を変えるものという驚嘆が、今日のブログになった。
宮沢賢治の世界
宮沢賢治の世界は、読み込むほどにとてつもなく深く重層的につくられていることがみえてくる。
今日の「どんぐりと山猫」も、わたしの書き方しだいでいくらでもちがう主張に使い回しがきく。これはこれで実はかなり深い話に展開できるからいずれまた登場するだろう。
宮沢賢治は、字面やあらすじを追うだけでもおもしろいし、その世界の色や音色という感覚に遊ぶだけでもすばらしく楽しいし、今日のように、好きかってに思索の遊行にもでかけやすい。
長い年月、全世代に愛されて飽きられることのない宮沢賢治の天才性の秘密がここにもある。
身体に恋愛
心も身体も、大事にしすぎても無理をさせすぎてもいけない。ちょうどいいくらいの適度なストレス・負荷をかけてあげることで、眠っている力がよびさまれる。それを今日のちぢみほうれん草は教えてくれる。
笑いの効用が言われて久しいが、悲しみ苦しみの効用が言われることはあまりない。「苦労は買ってでもしろ」は死語になってしまったとしたら日本はお終いだ。
いつも楽な道を探すわたしに、人様にどうのこうの言う資格はないので今日はわが身に言いたい。
「少しはちぢみほうれん草を見習え」
そうは言ってもあれやこれや、思う事 ひなたぼっこと猫ぱんち 山あり、谷ありとかを見ると
強気一点張りで生きれないときも山ほどあるからなあ。
こうやって山と谷を行きつ戻りつ、が人生かな。


